死ぬほどすき 試し読み②

『それじゃ葵(あおい)ちゃん。次は四つんばいになってみよっか』

突き付けられたスマートフォンの動画を前に、咲良(さくら)は呆然(ぼうぜん)とするしかなかった。

黒いパイプベッドに、ワンピース姿の青年が座りこんでいる。

それは間違いなく咲良自身だった。

夕方六時。センター街の電子時計から「赤とんぼ」が流れ出した。

三洋物産通信事業部コールセンターは、これを合図に日勤組の退勤ラッシュがはじまる。

西野咲良も日勤組のなかにいた。紹介予定派遣で採用され、足掛け二年。最近のチーム編成で、ようやくサブリーダーに起用された。

「松さんお疲れさまです」

退勤の道すがら、書類の山に埋もれた松の背中に声をかける。半年前まで直属の上司だった人だ。入社六年目の三十二歳で、テレフォンオペレーションでは最終責任者の一人だ。

「おー」

松は書類に目を落としたまま片手を上げた。ガタイと同じく武骨な左手の薬指には、昨年からシルバーリングが光っている。少し毛深くて、大柄な割に童顔。そのアンバランスな口もとは、この時間になるとうっすらひげが蓄えられる。松はどちらかというと、むさ苦しい部類に振り分けられる。

「なな、この後センター長と飲みにいくんだけど、おまえもどう?」

書類の整理が一段落したのか、通り過ぎる手前で松が声を掛けてきた。

「ごめんなさい、今日は先約があって」

「そうか」

松は「残念だな」と言いながら、咲良へ顔を向ける。

「じゃまた今度な」

「はい。また誘ってください」

自分の存在を擦り込むように、咲良はにっこりと笑う。

別班になった今では会話する機会もめっきり減ったが、当時は何かあるたび松の元へ駆けこんでいた。一つのミスも許されない風潮がいまだ強く根ざしている社内で、おおらかな松の存在は癒やしだった。

「そいじゃ、A班でも頑張れよ」

「あざっす。お先っす」

松が子供のような笑顔で手を振っている。咲良もつられて手を振りかけたが、会釈するにとどまった。

松はひそかに女性社員から人気が高い。外見はもっさりしているが、頭ごなしに怒らないし、優しくて面倒見も良い。家ではよく家事や料理もするんだとか。やはり男は外見より中身だ。

でもまさか、後輩の男子にまで、手塩にかけて育ててきた後輩にまで熱い目で見られているとは、当の本人は夢にも思っていないだろうけど。

ビルを出ると、赤とんぼのフルコーラスが流れ終えた所だった。

外はまだ明るい。頬をなでる風は朝よりも大分温く感じられたが、変わらずマフラーを首に巻き付ける。

隣のコンビニエンスストアでツナマヨおにぎりを買って、帰り道にほおばりながらスマートフォンをいじる。

今日はこの後、もう一件仕事が入っていた。

こちらも一応『派遣業』に入るだろうか。実は最近この副業が原因で、咲良はあるトラブルに巻き込まれていた。一時は足を洗うことも考えたが、金と男、この二大欲求を同時に満たせるのは、この仕事しかない。それに、蒸発した父親が残した借金を返済するまでは、辞めるわけにはいかなかった。

今日は二十一時に船橋のホテルで会う予定になっている。相手の男は三十代の自営業。名前は相場。いまだ新規の客には恐怖心もあったが、月末も近いからと、指名を受けることにした。

相手はどんな人だろう。

(松さんみたいな優しい人だといいんだけど)

屈託のない笑顔を思い返しながら、そんな事を考えていた。

指定されたホテルには三十分前に到着した。早めにチェックインを済ませ、まずはほっと安堵(あんど)する。シャワールームで汗を流し、ボディクリームを念入りに塗り込み、髪を乾かしているうちにインターホンが鳴った。

ドアチェーンを付けたまま少しだけ扉を開ける。

(松さんみたいな優しい人、松さんみたいな……)

扉の向こうに、咲良より少し背の高い、スレンダーで小奇麗な身なりの男が立っていた。

咲良はじっと相手の顔を見つめた。

男も咲良の視線に動じることなく、穏やかな瞳で見つめ返してくる。それは数秒程度のものだったが、これまで何十人という男性客を相手にしてきた咲良にとって、彼の性分を見極めるには十分な時間だった。

(この人多分、良い人だ)

後ろ前に被った黒のキャップに、アーバンリサーチのTシャツとジャケット、細身のパンツを着こなしている。内心所望していた松の外見とは程遠いが、彼のような整ったルックスの男は、嫌いじゃない。

それどころか、かなりタイプの顔だった。もし彼のような男性と街中ですれ違っていたら、ひそかに横目で追ってしまうに違いない。

「あの、入ってもいい?」

そう声をかけられて、ようやく自分が客の男性に見とれてしまっていたと気が付いた。いつまでたっても入室できない状況を前に、相手は多少困惑しているようだ。

ゲイ専門ヘルスという業種柄、客とボーイは、個別に入室するルールになっている。咲良が所属するメンズサロンでは、先にボーイがチェックインを済ませ、入室の連絡の後、客が部屋に向かう仕組みを取っていた。この手法を使うのも、世間に自分の性的嗜好(しこう)を知られたくない顧客へのプライバシー保護のためであるから、そもそもホテルのドアの前に立たされて、なかなか入れてもらえない状況など、顧客側にすればもってのほかの状況に違いなかった。

「あ、はい。ええと、相場さんですよね?」

いくら外見が好みだとはいえ、一瞬でも仕事を忘れかけた自分を叱咤(しった)しつつ、咲良は冷静に、なるべくゆっくり問いかける。

「うん、そう」

男は足元に目を落とすようにして頷(うなず)いた。

「分かりました。ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてました」

初対面なら猶更、最初の印象が肝心だ。咲良は笑顔でドアチェーンを外した。

「なんか、お兄さんがすごく」

「あの、久しぶり」

部屋から少し身を乗り出したところだった。にこやかに接客を始めた咲良と、未だ表情を硬くさせ、ドアの前から動こうとしない男性客とが、同時に言葉を発した。

「え?」

(今、久しぶりって言った?)

一瞬、聞き間違いかとも思ったが、首をかしげて男を見やると、途端にバツが悪そうな顔をして横を向かれた。曇った横顔が、先ほどの言葉は聞き間違いじゃないと無言で語っている。

「あの、俺、どこかであなたと会いました?」

相場はさらに表情を曇らせた。

「ここだと目立つから、とりあえず入れて」

この時、動揺のあまり、言われるまま部屋に通してしまったことを、咲良は後悔する。

『それじゃ葵ちゃん。次は四つん這いになってみよっか』

突き付けられたスマートフォンの動画を前に、咲良はもう呆然とするしかなかった。

安っぽいスピーカーから、女の声が漏れている。画面の前方には黒いパイプベッドがあり、そこに膝丈のワンピースをまとった葵と呼ばれる男が座りこんでいた。今どきの中性的な顔だちであるが、ウィッグも化粧もしていない。正真正銘の男。目の上でふんわりと前髪をなびかせた流行のボブヘアに、ぱっちりとつぶらな猫目はぼんやりとしている。男はカメラレンズの奥を一瞬覗(のぞ)き込むと、「はい」と小さく返事した。

それは間違いなく自分。

『そうそう、葵ちゃんのかわいーお尻をよおく見せてねえ』

画面のなか、『葵』は指示のとおりに四つん這いになると、カメラに向かって尻を突き出した。ワンピースの下は何も着用しておらず、ふっくらと柔らかそうな双丘が画面のほとんどを占領している。

(うそだろ……何で、この映像が……)

文字通り血の気が引いた。

『うふふ。奇麗なお尻。葵ちゃん、ここをいじられるのがだあーい好きなんだよね』

カメラの奥からにゅうっと手が伸びて、双丘を左右に割った。{晒}(さら)されたのは桃色の花弁。さらに何の戸惑いもなく、そこに指を突き立てる。

『ふ、ふぁぁ……っ』

蕩(とろ)けたような男の声。ろれつが回っていない。無理もない。あの日はウイスキーを無理やり飲まされ、意識はほぼ飛んでいた。覚えているのは、客の男に騙(だま)され、アダルトビデオに無理やり出演させられたこと。

その日咲良は黒田と名乗る男と会う予定だった。黒田は新規の客だった。ボーイの指名もなく、たまたまその時間に空きのあった咲良に仕事が回ってきた。

予定時間の三十分前にホテルへ向かうと、どうしてか黒田がすでにチェックインしていた。先にボーイがチェックインしてから客が入室するルールは、予約の際、サロン側が伝えているはずなのに。

この時点で、サロンへ報告するべきだった。

新規の客だから、緊張してルールを忘れちゃったのかもしれない。もしかしたら、地方出張のサラリーマンで、時間つぶしに先に入室したのかもしれない。勝手にいろいろと解釈をして、ルール違反を見過ごしてしまった。

入室すると、待ち構えていた黒田に部屋の奥まで誘導された。そこには黒田の他に、バスローブを着た若い女性が一人と撮影機材を持った男が数人待機していた。騙されたと気付いた時には既に手遅れで、数人がかりで取り囲まれ、無理やりアルコールを流し込まれていた。意識がもうろうとしたまま誓約書を読み聞かされ、あとは、されるがままだった。

咲良が店に被害を訴え、店側が警察に届け出たことで、相手業者はあっさり見つかった。多額の示談金に加え、動画サイトにアップロードしているデータの削除を前提に、店側も被害届を取り下げ、ようやく事なきを得たはずだったのに。どうしてかその動画が今、相場の持つスマートフォンで再生されている。

『葵くんって何から何までかわいいね。体もきゃしゃで、目もおっきくてほっぺもぷにぷにで、超かわいい。私、ホントに君みたいな子がだいすき』

女優の女の子が喋(しゃべ)っている。

『ねえもっとお尻』

「すっげえ格好だね」

相場の声がそれを途中で遮った。

「君が、こんなことしてたなんて」

名前は相場(あいば)。

かつて咲良が高校受験で通っていた塾の講師をしていたようだ。当時は現役の大学生で、担当も大学受験コースだったとか。インフルエンザで病欠した講師に代わり、二週間だけ高校受験クラスを担当したことがあるらしい。

相場は向かい合うように床に座り込み、ため息交じりに画面を見ている。

「これ……どこで」

「女優の子が持ってたよ。最近受けた仕事がやばいことになってるって相談受けてさ……」

「あ、俺いまボーイズバー経営してるのね」相場は続けざまに言った。

「その子、うちの常連でさ。AV譲やってるってのは聞いてたんだけど、なんつーか、今回は逆にやっちゃったみたいな話してて」

スピーカーからは、依然として自分の{喘}(あえ)ぎ声が漏れている。無理やり身包みを剥がされる思いでそれを聴いていた。いや、聴かされていた。本当は、いますぐ相場からスマートフォンを奪い取って本体ごと壊してしまいたかった。

直接の面識はなくとも、自分の素性を知っている人間に、一番見られたくない姿を見られてしまった。その精神的な打撃と当時の記憶が交差し、震える体をどうにか抑えるだけで精一杯だったが。

「動画を保存してあるっつーから、流れで再生したらさ、急に咲良くんがこんな格好で出てきて」

咲良の表情を伺うように、ちらりと顔を上げた相場は、ようやく動画を停止させた。

「あのさ……。ごめん、けど言うね。これ、その子から買ったのね。三十万で」

「え?」

相場の言葉にさらに愕然(がくぜん)とする。

買った?

この動画を、三十万で?

依然として、相場は視線を床に落としている。

脳裏では被害に遭ってから今までの出来事が、走馬燈のように流れていた。警察署に呼ばれ、性的サービスを仕事にしている事、その理由や、サービスの方法、行為の最中に感じているかいないか、言いたくもない事まで、散々説明させられた。サロンの店長や捜査員の前で、自分の動画を再生して、内容を確認させられもした。

『男性風俗店で見つけた女の子より可愛いゲイボーイと逆キメセク』

動画に付けられたタイトルを読み上げられもした。そこで、アルコールにドラッグを仕込まれていたとも聞かされた。

性的マイノリティを好奇の目にさらされ、たくさん傷ついて、傷つけられて、ようやくこの映像を世のなかから抹消させたはずだった。

はずだったのに。

この数ヵ月間の努力が全て水の泡だ。

動画のデータがまだ残っている。ましてや、三十万円で売買されている。もしも再びネットに拡散されたとして、次もまた被害を届け出る勇気はない。あの屈辱をもう一度味わわされるのかと思うと、絶望で足がすくんだ。

「……俺にどうしろっていうんだよ」

咲良が投げやりに言葉をぶつけると、相場は困惑したような目を向けた。

「わざわざこんなもの三十万も出して買って、本人に見せにきてさ、下心が何にもないはず、ないもんね」

相場はそれを否定することなく、曇った顔で俯(うつむ)いた。

数秒間の沈黙の間、相場の思惑を思いつける限り想像した。

金が目当てなら、倍以上の額をふっかけられるかもしれない。

体が目当てなら、金額相当分の性的サービスを要求されるかもしれない。

まさか、この動画を担保に別のAVへの出演を強制されるんじゃ……。

「咲良君、この仕事、辞めようよ」

「……は?」

結局、相場の放った言葉は、予想のどれにも当てはまらなかった。それどころか、まるで咲良の身を案じるかのような発言に困惑を隠せない。

「俺が動画を消す代わりに、この仕事から足を洗って欲しい」

「……あの、意味がわかんない」

「君が……、君、には、向いてないと思うから」

相場はしどろもどろに続ける。

「女優の子が、もうデータは残ってないっつってたから、安心していいと思う。でも、この仕事続けてたら、いつまた被害に遭うか分からないだろ。試しに俺が指名したら、君、きちゃったし。だから今こうして説得してるわけで」

そして相場が全て言い終わるより先に、咲良は壁際まで後ずさっていた。

「え、なに怖……」

今、聞いてはいけない事を聞いてしまった気がする。

つまり、動画を三十万円で買ったのは、データを抹消して、業界から咲良の足を洗わせるためだったということか。

たぶん、相場にメリットはない。何もない。メリットどころか三十万円を無駄に遣っただけだ。

しかもわざわざ咲良の所属するサロンを探して指名までして、サービス料金まで支払って、お願いします、この仕事を辞めてくださいって……一体何をしたいんだ。考えれば考えるほど分からない。

「なんなのアンタ? 俺のストーカーか何か?」

「え? いや違……、違う! 俺はただ君のことが」

そういえばたった二週間、塾のクラス担当だったというだけで、開口一番に「久しぶり」なんて言い方をするのもおかしいと思っていた。

「……俺のことが、何ですか?」

半分睨(にら)みつけるような視線を相場に送りながら、左右の手で床をまさぐり、鞄とダッフルコートを握りしめる。肌寒い季節で良かった。湯冷めしないようスーツを着直していたから、最悪の場合、このまま部屋を出て行けばなんとかなる。

「あの日から、咲良君のことが気になって」

「……あの日?」

「俺が講師をしてた時。声かけてくれただろ? 二週間講師お疲れさまでしたって」

「覚えてねーわそんな昔のことなんか!」

叫びながら、いよいよ危険な奴だと確信だけが深まっていく。

「待って、やだ、それって十年以上俺をつけ回してたってこと」

「いや、違う違う、そうじゃなくて」

相場は慌てた様子で両手を左右にぶんぶん振り回した。

「うん、まあ確かに、あの時は一目ぼれだった。あの日から俺は良い男になろうって決めて頑張ってきたんだ。でもいつの間にかいなくなっちまってて、当時はそれきり。咲良君の顔も名前も忘れられなかったのは本当。だからあの日、客の携帯から大人になった君を見つけて、心臓止まるかと思った」

言い訳にしては上等だと思う。ただ、それまでの過程が衝撃的すぎて、どう受け止めていいか分からないが。

「それはどうも。でも余計なお世話だから。俺の事は放っといてくださいお願いします」

「あと、この仕事も別に嫌々やってるわけじゃないですから」鞄とコートを両脇に抱え、そろそろと立ち上がりながら、咲良は言葉を続ける。

「俺は男しか愛せないし、そういう男も回りにいないし。金も貰えて性的対象にしてもらえるんだから、天職なわけですよ。そりゃ、あんな目に遭って悔しいし、怖くないわけないけど、男とセックスできない方がよっぽど寂しいの」

相場の表情が険しさを増した。

「その役目、俺じゃ駄目なの?」

「あ、それは無……」

「俺なら君を大切にできる。うんと甘やかして、望むときはいつでも側にいる。絶対寂しい想いはさせないし、夜だって……いや、昼夜を問わずいつでも満足させられる自信がある」

じりじりと相場がにじり寄ってくる。出口を求めんとする咲良の動きを真っ向から封じるように。

「ははは、遠慮しときます」

「俺と付き合ってくれたら、動画もちゃんと削除するから」

そこで咲良の動きがピタリと止まった。そうだった。最大にして最悪の弱みをこの男に握られていたのだ。

「いや、付き合ってなんておこがましい事は言わない。せめて、君の役に立ちたい。何でもするから」

「や、やめてよ。俺の事好きならさっさとその動画消せばいいじゃん」

「でも俺の顔って結構好みじゃない?」

正直、かなり好みである。咲良はさらにうっと詰まった。

「こんな男に抱かれてみたいとか、思わない?」

実際、初見でそれと似た感想を抱いていたのは間違いなかった。相場がどんどん詰め寄ってくる。興味はあるけど、怖くて手が出せない。生まれて初めて、生き物を目にした子供のような顔で立ちすくむ咲良の元へ。ゆっくりと歩み寄り、そして肩を抱き寄せる。柑橘(かんきつ)系のさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。

「ね、咲良君。俺の部屋に行こうよ」

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試し読み版終了

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