禁断レポートシーズン2-恋愛ゲーム(前編)-試し読み

「白紙に戻すとは……どういうことですか、ドクター」
薄暗い資料室に紺の声が響き渡る。
「言葉のまんまですよ。御社とは契約しないことにします」
つい数時間前、『鬼ごっこをしましょう』と奇妙な提案で社内をふり回したその男が、今度はNOと首を横に振る。
(こいつ……人を遊ぶだけ遊びやがって)
「それじゃ、お疲れ様でした」
哉太はあしらうような視線を紺に投げ、ダークブルーのスーツの裾を揺らして踵を返すと、紺を残して部屋の奥へ姿を消した。
「待ってくださいドクター!」
紺は足早に後を追った。
何時間、部屋の前で人を待たせたと思ってるんだと怒鳴りたい気持ちだった。もしくは目の前の背中を突き飛ばして、馬乗りになり、その澄ました顔を思い切りぶん殴りたいと、野蛮な妄想にすら囚われていた。
十五分以内に木瀬孝弘を捕らえられたら、契約を飲むと言ったのはそっちだ。だから濡れ鼠のように社内を駆けずり回った。外部に漏れれば社会的な制裁も免れないリスクまで冒して木瀬孝弘を手に入れたのは、全て会社の為だった。
それなのに、今更なかった事にしろだなんて、人をばかにするにも程がある。
(このクソガキ、いい加減にしろよ……!)
もう嫌だ。
こんな天邪鬼の面倒なんてまっぴら御免だ。
俺には手に負えない。
アメリカでもどこでも行ってくれ!
心で暴言を吐きながら、紺は尚もあとを追った。
「ドクター!」
彼が小野哉太でなければよかった。
天才科学者でなければよかった。
せめて、惚(ほ)れ薬の生みの親でなければよかった。
彼がそこらにいる若造の一人であってくれれば、権力でどうとでもできたものを。
「お待ちくださいドクター!」
そびえ立つ大型の本棚が間仕切りをする資料室は、小窓の薄明りまでふさがれ、年中薄暗い。
「どうか温情ある措置を、ドクター」
まるで巨大迷路のようなそこを、すがりつくような思いで奥へと進んだ。
薄暗い部屋の奥、ぐったりとした様子の青年が、ほぼ全裸の状態でソファに寝かされている。そこでようやく哉太の足が止まった。紺は近寄るが、哉太の視線は青年に注がれている。
その男はターゲットだった。
小野哉太の示した条件によって、ゲームの標的にされた。
制限時間内に彼を捕まえれば、惚れ薬の製造権が得られる、はずだった。
紺は無意識に息をひそめ、哉太に倣(なら)い、青年を見下ろした。桜色にほてった上半身は、うっすら張った汗の膜でしっとりと潤っている。密室内で二人がなにをしていたのか……いや、彼が木瀬孝弘になにをしたのか、考えるまでもなかった。
(かわいそうに。囮どころか、最後は喰(く)われちまったわけか)
なんの非もなく、不条理な扱いを受けた彼にこそ同情の念を送るべきだろうが、遠い昔に人間らしさを失った紺には、その姿は忌むべきものとしか映らなかった。
「紺さん」
紺は静かに顔を上げる。目の前のガラス窓ごしに、哉太と目が合った。
「素人がよく吸入麻酔なんか使えましたね。もしもの時、どうするおつもりでしたか」
「……さすがよくご存じで」
麻酔の取り扱いは現役時代に嫌というほど叩(たた)き込まれている。そう言おうとして、口をつぐんだ。殺意すら匂わせる猟奇的な視線をよこされ、身の危険を感じたせいだった。
「……でも、個人的には好きですよ。あなたみたいな危険人物は」
哉太は顔だけこちらに向けると、今度は一転して無邪気な笑顔をのぞかせる。そのアンバランスさが余計に不気味だった。
「そうそう。御社の社長さんはお元気ですか」
哉太はその場にしゃがみこむと、孝弘の元へ手を伸ばす。
「ええ、まあ……」
「そうですか。それはよかった」
彼はしきりに孝弘の頬や髪の毛を撫(な)でていた。ちょうど真正面のガラス窓に、困惑の色をにじませる自分の姿が映っている。
「紺さん、俺と手を組みませんか」
ガラス窓に映る男は、依然として雲ゆきの怪しい顔をしていた。
「俺ならこの会社、ぶっ壊せます」
背中を向けたまま哉太は続ける。
「なんもなくなっちゃえば、あなたの自由にできるでしょう。地位も権力も、なにもかも」
意味深な言葉に応じる言葉が見つからず、沈黙だけが続いた。
「本当は窮屈で仕方ないんじゃないですか、規律と建前だらけの閉塞したこの社会が」
紺はやはりなにも答えられなかった。
「紺さん、俺のリバースが欲しいですか」
「……欲しいですとも」
「この先、俺の手足となって動いてくださいますか」
スーツから伸びた腕が紺に向けて差しだされる。
しばらくして靴底が床を蹴り、前方へ歩みを進める。
「もちろん。あなたのお役に立てるなら、どんなことでもやるつもりです。そう躾(しつけ)られてきましたから」
しなやかな指に誘われるまま、膝を折るとその場にひざまずいた。
「それはよかった」
紺は小さく返事をすると、差しだされた手の甲に唇を押しつけた。

柚木が孝弘と話したのはその日の夜のことだ。

すっかり白くなった息を吐きつつ、重い足を引きずりアパートに戻った時は、午後二十時を過ぎていた。
玄関口から倒れこむように身を投げると床に寝転がり、右手で携帯電話の着信履歴を表示させる。同一人物の名前が、ずらりと画面を占領している。柚木の指先は迷うことなくリダイヤルを押していた。
予想よりも早く呼びだし音がやんだ。
『……柚木?』
小さくかすれていたが、受話口から聴こえたのは確かに孝弘の声だった。最後に連絡を取り合った日から数日が過ぎていた。
──そうだ、次は君の彼氏をここに呼んであげよう──
あの代議士の声が耳に張りついて離れず、もし本当に、孝弘が自分の代わりにひどい目に遭わされていたらと思うと、不安と恐怖で胸が押しつぶされそうだった。
呼びだし音が途切れ、孝弘の声が耳を撫でた時、声の力のなさを案ずる余裕もなく、ただ泣いてすがりつきたい気持ちだった。
(よかった、孝弘が無事でいてくれて、本当に)
感情と裏腹に、柚木は冷静を演じる。
「うん、俺。電話にでれなくてごめんね」
『え……? いえ、大丈夫です。それより遅くにどうしました?』
「ねえ、怒ってない?」
そう尋ねると、しばらく無言が続いた。
『ええ。全然、僕が柚木に怒ることなんてないですよ」
「よかった。孝弘の着信に出れなくて、遅くなったから怒っちゃったのかと」
そう言うと、また受話器の向こうが無言になる。
「孝弘? どうしたの?」
『いえ……、ごめんなさい。今日はなんだかぼんやりしてしまって。さっきまで自分がなにをしていたのか、思いだせないんです。気付いたら会社にいて……』
電話越しの声は、確かに弱り切っていた。
「ごめん、俺自分のことばっか。孝弘、忙しいもんね」
『いいえ、大丈夫ですよ』
孝弘はゆっくりとした口調で応答する。どこかぎこちなく、意識的にそうしているように思えた。
『それより、柚木はいい子にしていましたか?』
「……え」
──そうだ、いい子だね──
言葉の些細な部分から、思いだしたくもない記憶がよみがえってきた。断片的な破片がバチバチと炎を発して、柚木の脳裏を再び恐怖と屈辱で焼き尽くそうとする。
「あ……うん」
なんとか絞りだした声は、重く濁っていた。
『……もしかして、なにかありました?』
柚木の闇に引きずられるように、孝弘の声色もまた暗くなる。
せめてこの数日間の出来事を、洗いざらい打ち明けられたらどんなにか楽だろう。
「……実は、しばらく体調がよくなくってさ。アルバイトは休んでたんだ」
そう思いながらも、新たな傷をえんげするしかない。
『体調がよくないんですか』
「うん、ちょっとね。でも大丈夫だから」
柚木は受話器ごしに頬ずりをする。少し前に気付いた、孝弘と話している時の自分の癖。きれいなものに擦りつけると、自分まで浄化されている気持ちになれるから。
あくまで友人としての気遣いであることも、孝弘が誰に対しても平等に優しい人間だということも、ちゃんと理解している。

分かっているうえで、片思いを続けている。

親友という、絶対に好きになってはいけない人に。

『夕飯はちゃんと食べましたか?』
「はは。飯かあ」
きれいで優しい孝弘を好きになるまでに、時間はかからなかった。気付かれて拒絶されることが怖くて、いつしか弟の哉太のことを話題にするようにしていた。
『その言い方……。また食べてませんね』
「んー。水は飲んだよ」
本当は、哉太になんか興味はない。双子の弟を通して見ていたのは、いつも孝弘だけだった。
『柚木。水は食べ物ではありません』
「んー。だぁいじょうぶ」
『大丈夫じゃありません』
そんなことをなにも知らないだろう孝弘は、わがことのように柚木の体調を気遣っている。
申し訳ないと思いつつ、心配をかけるたび、孝弘の意識に自分の存在があることを実感して、うれしくなる。
暖房器具のない玄関で、頬は雪のように冷たかったが、気持ちだけは煮詰めたいちじくよりも熱く溶けそうだった。
『待っていてください、今からそっちに行きますから』
淡い期待に包まれた心臓が、軽やかに跳ねあがった。
(本当は、最初から期待してた。孝弘ならそう言ってくれるんじゃないかって)
孝弘の言葉を耳にしながら、柚木の頬は無意識に上気していた。
そんな己の反応を戒めるように、下唇を噛んだ。
(でも、きっと本当の俺を知ったら、孝弘に嫌われる)
自己嫌悪に陥りそうな自分を抑えて、柚木は努めて、孝弘を突き放すように言葉を放る。
「だいじょぶ、どうにかやるから」
(会いたい。会いたい。たまんなく会いたい。寂しくて、恋しくて、孤独でつぶれちゃいそうなんだ)
心の内側の叫びと一致しない言葉に、柚木の思考はぐらついていた。
『いえだめです。そんな状態の柚木を放っておくなんて、絶対──!』
「でも」
(会いたい、会いたい、会いたい)
受話器越しの孝弘の言葉に、心の叫びはあふれ出そうになる。
抑えるのに必死なのに、孝弘の声は、否応なく柚木にしみこんできていた。
『我がままなのは承知です。でも心配で……。だめですか?』
(まさか、だめなわけがない。むしろ俺は──)
「──ごめんな、本当に。……ありがと、待ってる」
(早く君の優しい瞳に、俺を映してほしいと願ってるんだ)
通話を切り、柚木は目頭を押さえながら、孝弘の最後の言葉を噛みしめる。
(『我がままなのは承知です。でも心配で……。だめですか?』──だめじゃないよ、孝弘)
頬を熱い雫に濡らしながら、柚木は生きていてよかったと、唇だけで呟いた。

柚木の体に異変が起きだしたのは、通話を切ってすぐのことだった。体の中が燃えるように熱い。頭はぼうっとのぼせ上り、ひどいめまいを感じる。
(なんだ……これ)
携帯電話をそこらに放るとフラつきながら壁づたいに脱衣所へ向かう。服を脱ぎ終わるころ、鏡の前の自分を見て絶句した。微熱でもあるのか、肌全体がほのかな桜色に染まっている。顔も、まるで頬紅でもひいたかのようだ。乾いた唇は赤く艶めき、ほんのり濡(ぬ)れてさえいる。瞳も潤んでいる。柚木自身も戸惑うほど物欲しげな目だった。『欲』を漂わせる憂い目が、鏡の向こうの自分を見つめている。
喉の奥が熱い。
体の中が砂漠みたいにカラカラに乾いている。苦しい。この渇きを満たしてくれるものはなんなのか。それすらも分からぬまま、ひたすら涎(よだれ)をのみ、鏡を見つめる自分がいた。
(なんだ……なんだよ、これは)
艶めいた視線にぞっとする。
「はぁはぁ……、んッは、ぁ」
声もおかしい。変にうわずり、悩ましい掠(かす)れ声しかでてこない。
口呼吸でなければ息が続かず、溜息が次々と漏れる。異変はそれだけで収まらず。
(俺……勃ってる)
成人男性にしては初心な色をしている柚木の核心が、ドクドクと激しく波打ちながら異常に興奮している。根本から腫れ上がったそれは狂おしくそそり立ち、血液という血液が、まるで爆発直前の砲丸みたいに暴れ狂っているようだった。尖端の鈴口からは涎のような先走りがいくつも筋を作って垂れ落ち、まるで舌なめずりでもするように脈々と震えていた。
今までにないその反応に、ただただ困惑する。
これまで肉体的な快楽に嫌悪を抱いてきた。
愛も感情もない強制的なセックスに忌避感を抱く一方、喘ぎ狂うこの体が嫌で嫌で仕方なかった。いつしか柚木のなかで肉体的に味わう快楽は、人としての感情とかけ離れた、別次元の欲と考えていた。
それがどうだ、強制的に与えられもしないのに、こんなに隆起している。
初めてだった。一人でいる時に興奮状態に陥ってしまったこと、それ自体が。
成人男性では当然とされる自慰行為もおっくうで、自分の手でそこに触れることすら抵抗があった。
なにより、どうして今までなかった反応が自分の身に起きているのかが分からない。
なにか変なものでも食べてしまったか?
いや……、あの男の部屋で梅がゆを食べた以外は、なにも口にしていないはず。
だけど今危惧すべきはそこではなくて……。
(どう、しよう……。孝弘が、もうすぐ家にくるのに、俺、こんな──)
あれほど恋しがっていた親友が、もうすぐ部屋に訪れてしまう。

 

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