木乃伊の恋9話

窓を開けてバルコニーに出る。壮大に広がる大海原の代わりに、駐輪場が目に飛び込んだ。塗装の剥げかけたベニヤ屋根の下、年季の入った自転車が数台、無造作に並んでいる。

「急やったけど、あのお婆ちゃん綺麗好きやったけん。まあ、見た感じ大丈夫そうやね」

案内係の安藤さんが、あちこち室内を歩き回っている。ボタンのはちきれそうな白いシャツに、ぴっちりとベルトを締めたジーンズが動くたび窮屈そうに悲鳴を上げる。

ふくよか、というか全体的に丸っこい。白髪交じりの髪はショートカット。旬の女芸人と似た雰囲気で、憎めないタイプの人だ。

「玄関入るやろ、すぐ左のドアがお風呂場やね、その目の前がトイレやね」

奥の和室から外の景色を見ていた恭弥は、「あ、はい」慌てて足を運ぶ。

良かった、トイレは普通の洋式だった。風呂場もそこそこ。換気扇の代わりに小窓がついていて、シャワーの代わりに赤と青の蛇口が浴槽と洗い場に一つずつ備え付けられている。
浴室鏡がないのは残念。髭剃りはちょっと面倒か。

「ほんでこっちがお台所よ。家具と冷蔵庫付きやけんね」

続いてはキッチン、もとい台所に移動。

こちらも案の定の昭和のテイストで、低くてこじんまりとしている。

シンクはお皿が一枚洗えるくらいの大きさで、風呂場と同じく赤と青の蛇口が二つ。
二畳半ほどのダイニングスペースは、中央に四角形のテーブルセット。調理用具は付いとらんね、と安藤が言った。
冷蔵庫は、この大きさだと数日分の食料も保存できそうにない。

「隣の和室で部屋は全部じゃね」
「あ、はい」

続けて二人は和室へ。6畳間の和室は南側がバルコニーになっている。
因みに先ほど外の景色は確認済み。ベニヤの屋根も風情があって良いものだと思うことにした。

「こっちはクーラーとテレビが付いとるなし」

安藤に吊られて首を動かす。和室の隅には小さなテレビデッキ。その上に二十インチほどのテレビが乗っている。
自宅の半分以下のサイズだが、それでも十分有り難い。恭弥はついで窓の上に目を移した。

「クーラーってことは、冷房のみですね」
「うん? 何で? これは冷暖房完備よ」
「あ……、そう、ですか」

安藤はキョトンとした様子で首を傾げた。

「そうじゃそうじゃ。忘れとった、インターネットが使い放題なんよ。パソコンは押し入れに入っとるけんお使いやね」

私はこんなサービスいらんと思うんやけどが、安藤さんは顔に手をあて、また首をかしげた。
ごうっと風が舞う。獰猛なイノシシが突き抜ける勢いで、車のバックライトが小さくなっていく。
夕飯の買い出しへ外に出たところ。安藤さんの話では、近くにコンビニとスーパーがあるらしい。

この時間、アパートの前の道はひっきりなしに車が通り抜ける。

外は昼間より大分涼しくなった。けど、空気がどんよりとしていて蒸し暑い。
そこかしこで湿気を含んだ匂いがしている。そんな夕暮れも嫌いじゃないけれど、都会と違って車の音以外、何もないのは寂しい。
本当に何にもない。
人の笑い声も、OLや高校生で賑わうカフェショップも、無数の足がアスファルトを蹴って起きる、小さな地鳴りも、道行くサラリーマンの姿も、何もない。

民家はたくさんあるのに、どこにも人の気配がしない。一人きりで信号を待ち、赤から青に切り替わると横断歩道を渡る。無論、すれ違う人は誰もいない。

(なんか、意外だ)

実際に見る田舎は、予想していた姿と大分違った。
街灯も少ないし、ちょっと休憩できるようなお店が一つもない。広い世界にぽつんと置き去りにされた気がして、物悲しさと孤独で心が圧し潰されそうになる。

山、山、畑、家、畑、家、山、畑……。

見る物のほとんどが灰色か緑色だった。
淡々と車だけが流れ続ける。
夕方に差し掛かり、民家にちらほら明かりが点く。人は居るみたいだ。

(……なんにもない)

東京だったら、数分も歩けば飲食店が見つかった。
競争の激化でどこも趣向を凝らしていて、目新しさに行列ができるのも日常茶飯事。

でもこっちは、さっきから畑と山と民家の繰り返しで、それ以外の景色が見えてこない。

あっという間に日が暮れていく。歩き出して数分、辺りはすでに薄暗い。

だんだんと心細くなってきた。

この方角であっているのか。本当にこの街にコンビニがあるんだろうか。それすら疑わしくなってきた。ぽつりぽつりと灯る街灯だけが心の拠り所だ。

更に数分。

ようやく少し大きな通りに出る。道沿いに商店がずらりと並んでいる。が、シャッターの降りた店ばかり。空き家と貼られた店もある。街灯も変わらず薄暗く、余計にわびしさが募るだけだった。

更に闇が追ってくる。車のエンジン音と迫りくるライトの光が背後から煽られているようで、もしか轢かれるんじゃないかと背中を寒くさせる。

コンビニもスーパーも、まだ一向に見えてこない。小道を挟んで、また二車線路に出る。

薄暗い街灯に照らされた道の奥の方。これまでと違うほのかな光が闇に放たれていた。

「あ」

あった。
本当にあった。
この道の先で、たしかにコンビニエンスストアとスーパーが、向かい合って建っている。
白熱灯の明るさが無性に懐かしい。
店の入り口には、白地に赤文字で『8』を記載した、『ナインエイト』お馴染みの看板が目立つ。今日ほど安定のサービスを嬉しいと思った日は無いだろう。
恭弥は吸い込まれるようにコンビニエンスストアへと流れて行った。

葬儀場よりシンと鎮まった店内。レジには中年の女性が一人立っている。
背が高くやせ形で、短い髪は聖子ちゃんカットを現代風にアレンジした感じ。
入店直後、恭弥の方をジロリと一瞥した後は、特に何をするでもなく直立しているままだ。

店内はあちこち欠品ばかりで、陳列もぐちゃぐちゃ。
ドリンク専用冷蔵庫の中にあんぱんが紛れ込んでいて、目を疑った。

パンコーナーは唯一充実しているが、乱雑すぎて何が何だか分からない。セール品を買い漁る主婦の気持ちでパンを取るも、そっと元へ戻した。
賞味期限が昨日で切れている。

「すいません、ミネラルウォーターは品切れですか」

なんとか商品を選び、ようやくレジの前。
商品をカウンターにおいても、一言の挨拶もない。
黙々とバーコードを通しているおばさんからは、いつまでたっても返答がない。

「あの、聞いてますか? 水――」

バンッと音がして、レジカウンターに会計トレーが叩きつけられる。
びっくりしすぎて声も出ない。
おばさんは874円と表示された液晶版を指先でカツカツ叩いた。

もしかして喋れないのだろうか。あるよな確か、失語症とかいったっけ。
だけどせめて手か何かでジェスチャーしてくれたっていいんじゃないか。一応聞こえてるみたいだし。

「それとパン、賞味期限切れてましたよ」

財布から千円札を出しながら一応指摘しておくと。

「は? だから何ですか」

開き直った様子で、おばさんが口を開いた。
やっぱりというか、さっきまでの態度はわざと無視してたって訳だ。

「パン、下げた方がいいんじゃないですか」
「ああ? なんよアンタ」

口調はねちっこいチンピラ風。いちいち語尾のトーンを上げて、煽るような物言いをしてくる。
初対面で失礼かもしれないが、彼女は絶対に接客業に向いてない。

「もし誰かが買っちゃったら大変ですよ、クレームだけじゃ済みませんよ」
「ああそうですか!」

釣銭が会計トレーに投げつけられた。
なんだか馬鹿らしくなってきて、商品と釣銭を手に「もういいです」と店を出た。

「どうもありがとうございました!」

背後から喚き散らすようなおばさんの怒声が聴こえた。入れ替わるように中年の男性客が入ってきたが、カウンターを見るなり苦虫を噛み潰したような顔をして踵を返していった。

全てが裏切られた気分だった。この店のどこが『ナインエイト、いい気分』なんだろう。出店元にすら疑問を抱いた。

どうして正しい事を指摘して、怒鳴られなきゃいけなかったんだろう。どうしてあんな店員さんを雇っているんだろう。店側は注意しないのか。賞味期限切れの商品を販売するって、重大なインシデントになるんじゃないか? ここはいいのか? 田舎だから?

それはあまりに、この街の人に失礼だと思う。

兵頭さんや社長さんや、あんなにいい人たちがたくさんいる中で、この店はどうみても異質な存在だった。
とりあえず、もう、絶対に利用することはないだろうけど。